「損害賠償を請求する」と言われたとき — 労働基準法16条が届く範囲と、届かない範囲
請求そのものを止める条文ではありません。栃木労働局は同条の解説で、現実に生じた損害について賠償を請求することまでを禁じたものではない、と書いています。
そして、会社が金銭の請求を持ち出した時点で、頼める相手が3類型から1つに減ります。ここが、この面でいちばん先に知ってほしいところです。
急いでいる人のために、この面の答えを先に4つ置きます。
- 16条が届くのは、契約の段階 — 「辞めたら違約金◯円」型の取り決めを禁じる条文です
- 16条は、実際に生じた損害の請求までは止めていない — 労働局が明記しています。ここを混ぜると間違った安心になります
- 請求する側にも、条文上やることがある — 民法415条・709条は、損害が生じたことと原因の帰属を要件にしています
- 金銭の請求が出た瞬間、退職代行の列が2つ落ちる — 民間企業も労働組合も対応できない帯に入ります
上から順に読まなくて大丈夫です。
労働基準法16条は、何を禁じている条文か
禁じているのは、契約であらかじめ金額を決めておくことです。e-Gov法令検索の労働基準法(2026年8月22日確認)で、第16条は一文だけです。
(賠償予定の禁止) 第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
読むところは2つあります。「違約金を定め」と「損害賠償額を予定する契約」。どちらも、何かが起きる前に金額を先に決めておく行為を指しています。
栃木労働局は、この条文の解説で具体例をそのまま挙げています。「途中でやめたら、違約金を払え」という違約金制度の設定と、「会社に損害を与えたら○○円払え」という損害賠償額の事前の予定です。和歌山労働局も同じ2つの例を挙げています。
検索結果といちばん食い違うところ — 16条があっても、請求は止まりません
栃木労働局は、16条の解説にこの一文を置いています。あらかじめ金額を決めておくことは禁止されていますが、現実に労働者の責任により発生した損害について賠償を請求することまでを禁じたものではありません。
退職と損害賠償を扱う記事には、労働基準法16条を挙げて「だから会社は損害賠償を請求できません」とまとめるものがあります。条文の前半までは合っていますが、労働局が同じページで付けている後半が落ちています。
この差は、読んだ人の行動を変えます。16条だけを根拠に安心してしまうと、実際に書面が届いたときに何も準備していない状態になります。逆に、請求されたら必ず払うことになると思い込むと、必要のない支払いに応じてしまう向きにも振れます。
正確には、この2つは別々の話です。
| 会社から言われている内容 | 労働基準法16条が向いている先か | 見ることになる条文 |
|---|---|---|
| 「入社時の誓約書どおり、違約金◯万円を払え」 | 向いています。違約金を定める契約は、条文が名指しで禁じた形です | 労働基準法16条 |
| 「規程に書いてある賠償額◯万円を払え」 | 向いています。損害賠償額を予定する契約として、条文の文言に重なります | 労働基準法16条 |
| 「実際に出た損害の分を払え」(金額が事後に出てきた) | 向いていません。労働局が「禁じたものではありません」と書いている側です | 民法415条または709条 |
| 契約期間の途中で辞めた場合の請求 | 向いていません。期間の定めのある契約には、別の条文が用意されています | 民法628条 |
| 研修費・資格取得費を返せ | ここは分かれます。次の節に分けました | 労働基準法16条をめぐって解釈が分かれる帯 |
請求する側が、条文の上でやることになるもの
損害賠償の請求は、言えば成立するものではなく、条文が要件を置いています。一般論として、どの条文にどう書かれているかだけを並べます。あなたの事案でどう判断されるかは、事情によって変わるので書きません。
| 条文 | 条文が書いていること | 条文に置かれた歯止め |
|---|---|---|
| 民法415条1項 (債務不履行による損害賠償) | 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき、または履行が不能であるとき、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる | ただし書があります。その不履行が「契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない」 |
| 民法709条 (不法行為による損害賠償) | 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う | 条文が「故意又は過失」と「これによって生じた損害」を要素として書いています |
| 民法628条 (やむを得ない事由による雇用の解除) | 期間を定めた場合でも、やむを得ない事由があるときは各当事者は直ちに契約の解除ができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う | 賠償の責任が生じるのは、条文上「その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるとき」です |
どの条文にも、共通して「これによって生じた損害」という言い方が入っています。金額が条文から自動的に出てくる作りにはなっていません。
そして、期間の定めのない雇用で辞める場面については、民法627条1項が「解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する」と定めています。この条文は、伝えた方法や伝えた人を条件にしていません。日にちの数え方は申し入れから2週間で退職は成立します(民法627条1項の数え方と、就業規則「1か月前」との関係)にまとめました。
研修費・資格取得費の返還は、別の論点です
この話は、これまでの節と混ぜないでください。「辞めるなら研修費を返せ」「資格を取った費用を返せ」と言われる形は、損害賠償ではなく費用の返還として組み立てられます。争点になるのは、その取り決めが労働基準法16条の禁じる賠償予定にあたるのか、それとも会社が立て替えた費用の貸付にあたるのか、という切り分けです。
この切り分けについて、官公庁が公表している解説は、今回の調査では見つかりませんでした。栃木労働局と和歌山労働局の16条のページは、違約金と賠償額の予定という2つの例までで、研修費や留学費用の返還には触れていません。
だからこのサイトでは、「返さなくていい」とも「返さなければならない」とも書きません。金額の相場も書きません。書けるのは、争点がどこにあるかまでです。
確かめる先としては、労働局の総合労働相談コーナーが無料の窓口です。合意書や誓約書の現物を見せられる場所へ持っていくと、話が早く進みます。
「損害賠償」と言われた瞬間に、頼める相手が減ります
金銭の請求が出た時点で、退職代行の3類型のうち2つの列が落ちます。これは、当サイトの判定DBで確かめられる構造です。行為10項目のうち、会社からの損害賠償請求への対応という行だけ、民間企業と労働組合の欄が両方とも「頼めない」に置いてあります。3類型で全部そろって届かなくなる行は、ここと訴訟の代理の2つだけです。
| 運営形態 | この行の判定 | そうなる理由として解説されていること |
|---|---|---|
| 民間企業 | 頼めません | 相手からの請求への反論は、法律事件についての法律事務にあたると解説されています。弁護士法72条が扱う場面です |
| 労働組合 | 頼めません | 会社からあなた個人に向いた請求は、労働条件の団体交渉とは別の話になると解説されています。ここから先は弁護士に案内されることが多い場面です |
| 弁護士 | 頼めます | 弁護士法3条1項が、一般の法律事務を行うことを職務とすると定めています。反論も、そのまま手続に進む判断も扱えます |
東京弁護士会・非弁護士取締委員会も、パワハラを受けた場合の慰謝料などの損害賠償請求は法律的な問題である、と書いています。会社からの請求も、あなたからの請求も、同じ帯に入ります。
行為ごとの一覧は頼める範囲の判定(行為10項目×運営3類型を、条文と確度つきで一覧にしたもの)にあります。弁護士法72条の線がどう動くかは退職代行と弁護士法72条(4つの要件と、運営形態ごとの根拠条文)に分けました。
言われたときの、受け止め方
口頭で言われただけで、書面は来ていない
条文の側では、口頭か書面かで賠償の要否が変わる作りにはなっていません。ただし、あなたが動く材料としては差があります。言われた日付と、言われた内容を、その日のうちに残しておいてください。相談窓口で最初に聞かれるのが、いつ・誰が・何と言ったかだからです。
「弁護士に相談する」と言われて、話が止まっている
会社が相談すること自体は、会社の自由です。退職の効力とは別に進みます。民法627条1項の2週間は、話し合いが続いているかどうかで止まる書き方をしていません。
金額まで書いた書面が届いた
ここは、このサイトが答えを持てない場所です。書面が手元にある状態は、条文の一般論より現物を見た判断のほうが早くなります。弁護士か、労働局の総合労働相談コーナーへ持っていってください。相談は無料で、辞めるかどうかを決めていなくても使えます。
未払いの残業代もある
請求と請求が両方向に出ている状態です。この形は、東京弁護士会が事例1で挙げた残業代の帯と重なります。片方だけを別の窓口に出すより、まとめて1か所で見てもらうほうが整理が早く済みます。
眠れない、朝起きられない — そこまで来ているなら、順番を変えていい
金銭の請求を持ち出されると、体にこたえます。
眠れない。食べられない。日曜の夜になると動悸がする。朝、ベッドから出られない日がある。そこまで来ているなら、条文より先に見てほしい場所があります。
厚生労働省のこころの耳に、働く人向けの相談窓口がまとまっています。費用はかかりません。
書面が届いていても、今日いっぺんに片づける必要はありません。判断は、消耗している状態でするほど雑になります。
辛いのは、耐えなくていいものです。条文は逃げませんから、あとから戻ってきてください。
言われた言葉と、決まったことは、別。
請求すると告げられたことと、賠償の義務があることは、条文の上でも別の段にあります。
次にすることは、たぶんこの順番です。
- 言われた内容を、その日のうちに残す — いつ・誰が・何と言ったか。相談窓口で最初に聞かれるところです。
- 契約書に期間の定めがあるか見る — 期間の定めがあるかどうかで、見る条文が民法627条か628条かに分かれます。
- 言われた形が、契約段階の取り決めかどうかを分ける — 「辞めたら◯円」型なら労働基準法16条が向いている側です。事後に出てきた金額なら別の条文になります。
- 相談先を決める — 無料の窓口は、厚生労働省の総合労働相談コーナーです。書面が届いているなら、現物を持っていってください。
退職代行を検討している段階なら、頼める範囲の判定(行為10項目×運営3類型・条文と確度つき)で、自分の頼みたいことが3類型のどこで止まるかを先に確かめられます。金銭の請求が乗っていて弁護士型に絞られたなら、11社を同じ算出式で並べた順位(点の内訳と、公式に書いていなかった項目つき)と、3類型を金額ではなく到達範囲で並べた比較が、次に開く面です。
よくある質問
- 会社から「損害賠償を請求する」と言われました。労働基準法16条があるので請求はできないのでは。
- 労働基準法16条は「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」と定めた条文で、禁じているのは契約であらかじめ決めておく行為です。栃木労働局は同条の解説で「あらかじめ金額を決めておくことは禁止されていますが、現実に労働者の責任により発生した損害について賠償を請求することまでを禁じたものではありません」と説明しています。したがって16条だけを理由に、請求そのものが起こらないと読むことはできません。実際に請求が通るかどうかは別の条文と事実の問題になるので、当サイトでは個別の見通しを書きません。
- 入社時に「途中で辞めたら違約金10万円」という誓約書を書かされました。
- 労働基準法16条が名指しで禁じているのは、労働契約の不履行について違約金を定めること、および損害賠償額を予定する契約をすることです。栃木労働局と和歌山労働局は、この条文の例として「途中でやめたら、違約金を払え」「会社に損害を与えたら○○円払え」という形をそのまま挙げています。実際に交わした書面がこの条文に触れるかどうかの当てはめは、書面の中身によって変わるので、労働基準監督署または労働局の総合労働相談コーナーで現物を見せて確かめてください。どちらも無料です。
- 「引き継ぎをせずに辞めたら損害が出る」と言われています。
- 民法415条1項は、債務者が債務の本旨に従った履行をしないときに債権者が損害の賠償を請求できると定めたうえで、その不履行が契約その他の債務の発生原因および取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでないと書いています。条文が置いているのは、損害が生じたことと、その原因の帰属です。実際にいくらの損害が生じたのかを示す作業は請求する側に生じます。ただし、あなたの事案でどう判断されるかは事情によるので、当サイトでは見通しを書きません。
- 退職代行を使ったこと自体が、損害賠償の理由になりますか。
- 誰が退職の意思を伝えたかについて、賠償の要否を定めた条文は今回の調査では確認できませんでした。民法627条1項は、期間の定めのない雇用について、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了すると定めていて、伝達の方法や伝えた人を条件にしていません。ただし契約期間の定めがある場合は民法628条という別の条文があり、やむを得ない事由が当事者の一方の過失によって生じたときは相手方に対して損害賠償の責任を負うと書かれています。契約書に期間の定めがあるかどうかを先に見てください。
- 損害賠償と言われたら、退職代行に対応してもらえますか。
- 当サイトの判定では、会社からの損害賠償請求への対応は、民間企業と労働組合のどちらの欄も「頼めない」に置いてあります。弁護士法72条が「一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務」を扱うことを弁護士でない者に禁じており、会社からあなたに向いた金銭の請求は、その法律事件にあたると解説されているためです。金銭の請求が出た時点で、3類型のうち残るのは弁護士の列だけになります。費用が心配なら、法テラスや弁護士会の法律相談を先に確認してください。